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回复:【资料贴】胡乱扒一扒霓虹近代的贵族女性

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搁置了好几天,终于有时间更新了


IP属地:福建来自Android客户端55楼2014-10-11 19:30
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    接下来扒的是晨间剧【花子与安妮】里面叶山莲子的原型——筑紫女王柳原烨子


    IP属地:福建来自Android客户端56楼2014-10-11 19:32
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      2025-08-02 00:23:15
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      IP属地:福建来自Android客户端58楼2014-10-11 19:35
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        柳原家是藤原北家的支流日野流的支流


        IP属地:福建来自Android客户端59楼2014-10-11 19:36
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          柳原 白莲(やなぎわら びゃくれん、1885年(明治18年)10月15日 - 1967年(昭和42年)2月22日)は、大正から昭和时代にかけての歌人。本名は宫崎烨子(みやざきあきこ)、旧姓:柳原(やなぎわら)。大正三美人の1人。白莲事件で知られる。
          父は柳原前光伯爵。母は前光の妾のひとりで、柳桥の芸妓となっていた没落士族の娘[1]奥津りょう。东京に生まれた。
          大正天皇の生母である柳原爱子の侄で、大正天皇の従妹にあたる。


          IP属地:福建来自Android客户端60楼2014-10-11 19:37
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            生い立ち
            父・前光が华やかな鹿鸣馆で诞生の知らせを闻いたことから「烨子」と名付けられる。烨子は生后7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。前光の本邸には侧室の「梅」(元は柳原爱子の侍女)がおり、子のない梅は烨子の引き取りを愿っていたが、正妻の初子がそれを阻止すべく烨子を自分の手元に引き取ったという。生母・りょうは1888年(明治21年)、烨子3歳の时に病死している。
            初子を母と定められて间もなく、当时の华族の惯习として品川の种物问屋を営む家に里子に出され、乳母の「増山くに」と里亲家族の爱情の元、下町の自然豊かな环境で育てられる。学齢となった6歳の时に柳原家に戻り、初子に华族の娘としてしつけられる。1892年(明治25年)、麻布南山小学校に入学。
            1894年(明治27年)、9歳で远縁にあたる子爵・北小路随光(きたこうじ よりみつ)の养女となり、小学校も転校となる。北小路家は夫妇の间の子がいずれも早世したため、父・前光の弟が养子となっていたが、随光が女中に男子(资武・すけたけ)を生ませた事から养子関系が解消となり、その代わりに烨子を资武の妻にする条件での养子縁组であった。同年に父・前光が死去し、异母兄の义光が柳原家の家督を継ぐ。
            才出生七天就从生母奥津那里被抢走了,3岁的时候生母就去世了,可以说是一辈子也没见过生母一面啊,苦孩子啊。
            还是个奶娃娃就成了父亲前光的正室初子的养女,不过她这个养母对她还是不错的。
            依照公家的传统,烨子被交给了乳母带到了乳母家抚养,和乳母的关系十分亲密。
            到了学龄,烨子才被接回了柳原家,过了几年爹宠妈爱的日子。
            九岁那年,父亲前光就重病缠身了,临终前前光将烨子送到了远亲子爵北小路家当养女。
            北小路家的生活了不好过,他家不让烨子继续读书,在烨子的坚持下才同意让烨子自己徒步上学。
            说是子爵,北小路家已经是家道中落,没什么钱还要摆贵族的姿态。一家人对庶出的烨子可不放在眼里,也不想想自己唯一的傻儿子资武不也是庶出的。
            资武不仅是头脑不清楚还有暴力倾向,可怜的烨子就这么当了人家的童养媳。
            十四五岁就让傻子资武给糟蹋,十六岁就生下了儿子。


            IP属地:福建来自Android客户端61楼2014-10-11 19:59
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              十六岁时候的烨子


              IP属地:福建来自Android客户端62楼2014-10-11 20:06
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                北小路家で养父の随光により和歌の手ほどきを受ける。1898年(明治31年)、13歳で华族女学校(现・学习院女子中等科)に入学。北小路家は経済的に苦しい事から养父母は女学校入学を渋ったが、烨子の强い愿いにより、车ではなく徒歩通学を条件として実现した。同居する资武は7歳年上で知的障害があったといわれ、思春期の盛りで烨子が他の男と同席するだけで嫉妬して暴力をふるう事もあった。结婚相手である事など知らなかった烨子は资武に恐怖して嫌いぬき、结婚を急がせる养父母に泣いて抗议するが、ある日资武に「お前なんか妾の子だ」と骂倒され自分の出生を知らされる。初子を実母と思い込んでいた烨子にとっては、帰る场所を失った出来事だった。华族令とそれを元に定められた柳原家范という法の管理下にある烨子に选択の余地はなく、结婚を承诺させられ、间もなく妊娠した烨子は女学校を退学した。1900年(明治33年)、北小路邸で质素な结婚式が挙げられ、翌1901年(明治34年)、15歳で男子(功光)を出产。
                功光诞生の半年后、养母・久子の提案で北小路家縁の京都へ一家で引っ越す事となる。まったく友人の居ない京都での生活は、子の养育は久子に取り上げられ、幼い同级生と子供のように游びながら家で女中に手を付ける夫とは夫妇の爱情も无く、烨子は孤独を深めるばかりであった。结婚から5年后、烨子の诉えにより事情を知った柳原家と话合いが持たれ、1905年(明治38年)、子供は残す条件[2]で离婚が成立し、20歳で実家に戻った。
                上面说错了,烨子十五岁就生下了长子功光。
                资武比烨子大七岁,智力是有问题,但是在男女之事方面可是一点都不傻。
                他打烨子一进自家门开始,就想占有烨子,甚至连烨子跟男同学说几句话都会暴跳如雷。
                烨子是打心眼里不喜欢资武,可是两家的父母早已经安排好了他们的婚事。一等到烨子发育成熟,北小路家就把婚事告诉了烨子。烨子反对这门婚事,跟养父母抗议,却被资武骂出了她是妾室所生的事实,对一直以为自己是正室之女的烨子的打击可想而知。
                往后呢,资武先下手为强把还在读书的烨子给那个了。
                资武和大正在智力方面有缺陷,在那方面却不差。烨子就这样怀孕了,总不能再在学校读书了。
                烨子只能退学,生下了儿子功光。
                一方面北小路家还是心心念念京都老家,另一方面也想断了烨子的念想,北小路家举家搬回来京都老家。


                IP属地:福建来自Android客户端63楼2014-10-11 20:26
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                  2025-08-02 00:17:15
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                  烨子是在东京长大,在京都是无依又无靠,叫天天不应叫地地不灵。
                  北小路家也不让她自己带孩子,她和丈夫又无感情可言,内心的孤苦可想而知。
                  就这么又过了里面,20岁的烨子终于忍不下去了。她向养母初子写信哭诉,终于得以脱离苦海。


                  IP属地:福建来自Android客户端64楼2014-10-11 20:31
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                    幽闭生活と女学校入学
                    东京に戻った烨子は「出戻り」として柳原家本邸へ入れてもらえず、母・初子の隠居所で监督下に置かれ、门の外に一歩も出る事のない幽闭同然の生活となる。挨拶以外にほとんど谁とも口をきかない生活の中、姉・信子の计らいで古典や小说を差し入れてもらい、ひたすら読书に明け暮れる日々が4年间続いた。その间、再び烨子の意向と関わりなく縁谈が进められ、结纳の日取りまで决められるが、烨子は家を飞び出し、品川の乳母の家に走った。しかし、乳母の増山くには烨子の幽闭中に死去していた。家出した烨子を信子が庇い、兄・义光夫妻の元に预けられる。1908年(明治41年)、兄嫁・花子の家庭教师が卒业生であった縁から、东洋英和女学校(现・东洋英和女学院高等部)に23歳で编入学し、寄宿舎生活をおくる事となる。この顷、信子の绍介で佐佐木信纲主宰である短歌の竹柏会に入门する。最初の结婚で华族女学校の中退を余仪なくされた烨子には、再び学ぶことができる幸せな学园生活であった。女学校ではずっと年下の生徒达とも打ち解け、中でも后に翻訳者となる村冈花子とは亲交を深め、「腹心の友」となり、信纲を花子に绍介している。また、慈善事业に関心を持つなど见闻を広めた。1910年(明治43年)3月、东洋英和女学校を卒业。
                    接下来的事情和电视剧里面就对上了,就不多说了。


                    IP属地:福建来自Android客户端65楼2014-10-11 20:32
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                      1910年(明治43年)11月、上野精养轩で烨子と九州の炭鉱王・伊藤伝右卫门との见合いが行われた。仲介者は得能通要と三菱鉱业门司支店长で柳原家とも関わりがある高田正久。烨子は当日、それを见合いだとは知らされていなかった。伝右卫门は50歳、炭鉱労働者からの叩き上げであり、学问はなく、妻を亡くした直后であった。话は当事者を抜きに仲介の人々によって早々にまとめられた。亲子ほどの年齢差・身分・教养ともあまりに不钓り合いであり、日の出の势いの事业家で富豪とはいえ、労働者上がりで地方の一介の炭鉱主が「皇室の藩塀」たる伯爵家から妻を娶るのは前代未闻の事で、「华族の令嬢が売物に出た」と话题になった。
                      异例の结婚に新闻では、柳原家への多额の结纳金や媒介者への谢仪、宫内省への运动资金など莫大な金が动いた事が书き立てられた。背景には贵族院议员である兄义光の选挙资金目的と、一代で成り上がり、代议士や赏勲など様々な肩书きを得た伝右卫门が、后妻に名门华族の家柄を求めた事があったと见られている。25歳で肩身の狭い出戻りの身の烨子は、年齢差の大きい夫は妻を大切にしてくれる、伊藤が女学校を経営しており、その财力で女子教育や社会奉仕ができるという兄嫁の说得を受け入れた。最初の不幸な结婚から离れて、今度こそ平和な家庭を得て本当の爱を受けたい、という思いもあった。
                      翌1911年(明治44年)2月22日、日比谷大神宫で结婚式が行われ、帝国ホテルでは盛大な披露宴が行われた。东京日日新闻では结婚式までの3日间に亘り、2人の细かい経歴等を书いた「烨子と伝ねむ」というタイトルの记事が连载され、“黄金结婚”と大いに祝福された。结婚式を前にした新闻取材に対し、伝右卫门は柳原家や仲介者に多额の金銭を送った记事について否定し、烨子の兄・义光は不钓り合いな结婚について「出戻りですからな」と答えている。


                      IP属地:福建来自Android客户端66楼2014-10-11 20:34
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                        福冈県嘉穂郡大谷村大字幸袋(现饭冢市)の伊藤邸は赘を尽くした大改筑が行われ、烨子を迎えた。そこで烨子は、伊藤家の复雑な家族构成を知らされる。前妻との间に子供がいないと闻かされていた伝右卫门には、妾との间に小学6年の実娘・静子がいた。养嗣子として妹の子供で大学生の金次、その弟で小学1年の八郎がおり、父の伝六が妾に生ませた异母妹にあたる女学生の初枝や母方の従弟などもそこで暮らしていた。伝右卫门は若い顷の放荡が过ぎて子供ができない身体であり、烨子は実子を持つ事が出来ない不安定な立场で、大势の使用人・女中・下男も暮らす复雑な大家族の女主人となる。
                        烨子はまず家风の改革に取り组み、言叶遣いや家族间・使用人との间の呼び方を改め、朝食をパン食に切り替えた。自分なりの母の务めとして、静子と初枝には最先端の教育を受けさせるべく自分の母校である东洋英和女学校へ编入学させ、婿を自分の縁続きから世话をした。八郎も后に烨子の縁者である冷泉家から妻を迎えている。梦见ていた女学校の経営に付いては、伝右卫门の「金は出すが口は出さない」主义で叶えられることはなかった。
                        それまで派手な女遍歴があった伝右卫门だが、烨子との结婚にあたり、长年に亘る妾のつねと别れるなど身辺整理はしていた。しかし女中头のサキは家中を切り回すために必要として家に置いており、妾の立场で家を取り仕切るサキと、烨子は激しく対立する。この女中头の问题はこじれにこじれ、东京で烨子をいったん実家へ预ける话合いが持たれるまで発展する。结局、サキを幸袋の家から出す事で决着となるが、すでに婿を迎えている柳原家に烨子が戻る场所はなく、伊藤の家を追い出されれば生活の术もない己の立场の弱さを思い知る出来事であった。また游郭に入り浸る事の多かった伝右卫门に病気をうつされた事も、気位の高い烨子に大きな屈辱となり、夫妇の间の亀裂は深まるばかりであった。伊藤家で孤立を深める烨子は、京都にいる伝右卫门の古くからの妾である野口さとに信頼を寄せ、その妹の「おゆう」を小间使いとして福冈幸袋に呼び寄せた。1年ほど経ってから、おゆうに伝右卫门の妾になる事を恳愿する。己の立场を守るために、自ら夫に妾をあてがい、同じ寝所で3人で枕を并べて寝た事もあったという。おゆうが病で京都に戻った后は、烨子の愿いにより、再びさとが伝右卫门の妾を务めた。


                        IP属地:福建来自Android客户端67楼2014-10-11 20:44
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                          真实的传右卫门可不是电视剧里面那样的。
                          目不识丁的传右卫门和满腹诗书的烨子就不是一个世界的人。
                          传右卫门年轻的时候玩的女人可不少,也把身体给玩坏了。一大把年纪就生了个独生女,烨子是指望不上自己能够生下继承人在这个家站稳脚跟。
                          没有孩子的年轻女主人在这个大家族里面是没有什么话语权的。
                          烨子原本还想试着去改革这个家庭的家风,可是到后来却发现自己只是被丈夫当做美丽的女儿节人偶买回来摆设的,根本无法改变这个复杂的大家庭。
                          传右卫门的女性关系乱的不得了,粗俗的他甚至要求烨子忍受3P。
                          烨子遭受了极大的侮辱,在伊藤家没有尊严可言。到后来,烨子也心如死灰了,她一心投入了自己喜好的文学中去,还主动邀请丈夫的情人入住伊藤家。


                          IP属地:福建来自Android客户端68楼2014-10-11 20:59
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                            出奔决意
                            烨子の上京の机会は伝右卫门に同行する春秋2回で、京都などで限られる逢瀬の中、2人は频繁な手纸のやり取りで仲を深め、烨子は『解放』の编集部に电报で激しい恋の歌を送る事もあった。やがて龙介の周囲で烨子との関系の噂が広まり、华族出身のブルジョワ夫人との恋爱游戯など思想の敌として、1921年(大正10年)1月に龙介は『解放』の编集から解任され、4月には新人会を除名された。この事は烨子の心を一层龙介に倾かせた。同年6月、烨子は雑志の対谈で同じ竹柏会の同人である九条武子と初めて対面し、お互いに似た境遇ですぐに心通じ合う仲となる。武子にも秘められた恋人がおり、别府に招き2人で様々に语り合った。
                            そのうち、烨子から龙介に「今の境遇に耐えられない、何度自杀しようと思ったか知れない。今の状态から一刻も早く私を救い出して欲しい。」といった趣旨の手纸が届くようになる。1921年(大正10年)8月、京都での逢瀬で烨子は龙介の子を妊った。奸通罪のあった男尊女卑のこの时代に、道ならぬ恋は命がけであった。烨子は伊藤家を出る覚悟を决めて、秋の上京の际に家出を决行する准备のために、伝右卫门のお気に入りで博多花柳界で名高い芸妓であった「舟子」を、大金の4千円で身请けして、9月29日に廃业届が出された。おゆうと同じように、小间使いとして呼び寄せて、自分の身代わりの人身御供として舟子を伝右卫门の妾にしたのである。龙介は新人会时代の仲间である朝日新闻记者の早川二郎や赤松克麿らに相谈して、烨子出奔の计画を练った。烨子36歳、龙介29歳であった。


                            IP属地:福建来自Android客户端70楼2014-10-11 21:00
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                              2025-08-02 00:11:15
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                              苦不堪言的烨子终于遇到了自己真正的白马王子——宫崎龙介。
                              龙介是红色青年,父亲滔天和国父孙中山交情不浅。
                              他和烨子通过讨论剧本,一步步走近,不顾两人之间差了十几岁大胆相恋了。
                              龙介不愿意自己喜欢的女人,一辈子待在那个封建的大家庭里。他提出私奔计划,烨子终于看到了一丝光明,她不顾一切的逃出了伊藤家。


                              IP属地:福建来自Android客户端71楼2014-10-11 21:10
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